2006年01月27日

家族:4人の親とひとりの兄,ふたりの妹(へのラブレター)

家族:4人の親とひとりの兄,ふたりの妹(へのラブレター)


●父親について
父親にホメられた記憶は,一度しかない。

「おまえのいいとこは,素直なとこだと思うよ」

いつだったか,
どういう文脈で,その言葉が出てきたのか,
全く覚えていない。

でも,酒を飲みながら,
少し照れ臭そうに目を合わせずにそれを言った父親の横顔は,
今でもハッキリと,覚えている。

この人をダメだと思う点は多いが,
この人から学んだこと・受け継いだことも,
当然ながら,数多くある(良い点も,悪い点も)。


勤勉さ,(クソ)真面目さ,short temper,などは,
間違いなく,この人から受け継いだものだと思う。
しかたないな,と思う部分と,
「受け継げてよかった」と思う部分,両方ある。

両方あるからこそ,
ぼくは,この人の息子であるし,
それでよかったと思う。


●みやちゆうじさんについて
先生は,
「これからも,ずっと一生この人のマネだけしてれば,幸せ!」
と,相変わらず思える,そういう存在である。

オッカケをやめるつもりはないし,
もう相変わらず,あの人には,ベタ惚れです。てれテレ。

本田健さん『きっと、よくなる!』という本には,
「母親との人間関係は,あなたの人間関係の原点だといえます。」
(一方,)「父親には,「社会とは何かを教える役割」があります。」

という記述がある(同書136ページ)。


ぼくの場合,産みの父親が,やや,頼りない人であった。
自身も早くに父を失くしたが故に,どこか幼さ・未熟な部分を抱えたまま,
大人になってしまったようなところがあった。

だから,ぼくにはもうひとり,
「ちちおや」が必要だったのかもしれない。
足りない部分を,補ってくれる人が。

上記の記述は,
「人の成長には,そういう役割を果たしてくれる人が必要なのだ」
という意味であって,
その役割を果たす人が,必ずしも実の父親や母親である必要は,
必ずしもないのである。

(ひとりの親が,両方の役割を果たしてもいいのだが,
それは,なかなかしんどい場合が多いようだ。
母子家庭とか,シングルファーザー・シングルマザーってのは,
そういう点で,物理的に,なかなかたいへんなのではないかと思う。
(余談である。))

そういう観点で見ると,
確かに先生には,「社会とは何か」を教えてもらったと思うし,
母親(以下参照)は,自分の人間関係の原点となっている気がする。


●母親について
この人のおかげで,
ぼくはいま,こうして生きていられる。

山月記。
「逃げれば逃げるほど,人生は苦しくなるから。
 ここで逃げずに戦いなさい」→【参照記事】

そもそも,
この人の子宮(…それはいまは,もうこの世にはない。)がなければ,
ぼくはこの世に生まれて(産まれて出て)来ることはなかった。
この人の胎内で,ぼくは生まれた。


●兄について
小さい頃,ぼくは常にこの人の後ろを
トテトテついていく子供だった。→【証拠写真】
「キムラ事務所」で雑草を似て食べたのは,
あまりにも印象的な,象徴的な,たのしい思い出である。

しかし(/だから?),
別れは常に,突然やってくる。
ある日(中学1年生の登校初日),突然,フラれた(^^;)。

 「恥ずかしいから,もう後ろをついてくんな!」

(それはいま思えば,兄心(あにごごろ)だったのだろうか。
いや,単に自分が恥ずかしかっただけかな。ふふふ)

以来,この人と,いわゆる“兄弟”らしい
からみや会話をすることは,ほとんどないけれど,
でも確かにこの人は,ぼくの兄であり,
ぼくはこれからも一生,この人の弟である。
そしてそれを,とてもうれしく,誇りに思う。


●いくこさん(「おかあさん」)について
100万ドルの笑顔。カミさまの微笑。
限りない優しさ。

ゆうじの生産性は,この人あればこそなのだろう,と,
会えば,納得する。

  *4人も“父親”と“母親”がいるなんて,
   あぁ,なんてステキなことだろうか!


●ふたりの妹,しおかなについて
ふたりは,ほんとに妹のような感じだなぁ。
ホントに,「妹がいたら,こんな感じなんだろうな」と感じる時が
彼らに会う度,(よく),ある。

カゲヤマ女史が,
2004年3月の尼崎の時,ぼくを見て,
「ミヤチ家長男みたい(笑)」と評したが,正に,そんな感じである。

ふたりは,どちらも,かわいい妹。



ミヤチ家では,ぼくは“長男”となり,
実家では,あくまで次男である。

遺伝よりも環境・立場が,人を規定するのだなぁ,と思う。
だからきっと,人は多面的な存在となりうるのだ。

社長には社長の,
社員には社員の,

長男には長男の,
次男には次男の,

男性には男性の,
女性には女性の,

おじいちゃんにはおじいちゃんの,
おばあちゃんにはおばあちゃんの,

親には親の,
子供には子供の,

それぞれの役割があり,

きちんとその役割を自覚することで,
ヒトの脳みそは,
それに応じた能力を,適切に発現する。

どうも,そのように,できているらしい。
(それは,長い進化の過程でつちかわれた,
 社会性生物としてのヒトの脳みその,すばらしい能力・機能である,
 といって,よさそうである)

したがって,
この記事を読んでいる人よ,
もし,なりたい自分になりたければ,
そのような立場に,自分を置くことだ。
能力は,それに応じて,後から,必ず,伸びてくるから。


人生に,
遅過ぎるということは決してないと思うし,
たとえ明日死ぬことになっても,1時間後に死ぬことになっても,
できることは,必ずあるのだと思う。


だから,生きよう。
この世に生まれた幸福と悲しみと,やっぱり幸福,
を,噛みしめながら。

                  2006.1.27 記す
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うっしゃー,今日もがんばるぞぉ〜ー。
行って,きます。



【追伸:肉親ではない家族の方々(ミヤチ家のみささま)へ】
勝手に“家族”にしちゃったけど,
不愉快でしたら,取り下げます(^^;)。すみません(^^;)。


【追記】
●ヒューマニズムについて

「ヒューマニズム」という言葉が,すごく嫌いでした。

「汚いところ・負の面も含めて,人間ではないか。
キレイなところだけを取り上げて「人間主義」なんて言うのは,
見方が偏ってる。気に入らない!」

なんて,とんがったことを考えていたのです。

でも今は,
やっぱりそうかもなぁ,と思います。

 人が悩みさまよった果てに,
 最後にたどりつくのは,
 やはり,「ヒューマニズム」なのではないか。

いまは,そんなことを,思っています。
少なくとも,一個人の,現状での,暫定的な実験結果として。

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